9日目 1月6日  鹿児島県日置町鹿児島県鹿児島市
雨のち晴れ

テントを張った場所は駐車場の下で、すぐそばを川が流れている。
時おり停まるトラックのアイドリングや、川から聞こえる水鳥の鳴き声で夜中に何度か目覚めた。
九州の遅い夜明けとともに撤収しようと起き出すと、テントを叩く雨音がする。
またまた雨の朝だ。

とりあえず荷物をすぐ横の四阿(あずまや)に放り込み、テントもバイクもその屋根の下に避難した。
これでまたスタートが遅れる。
まあ仕方がないとあきらめて、ガスバーナーを取り出し朝食の準備にかかる。
スパゲッティとレトルトカレーという御手軽定番メニュー。

散歩のおじさんに話し掛けられたりしながら、のんびりと撤収を始める。
時々エンジンを掛けながら携帯にも電気を食わせてやる。


雨宿り中

川には3連の石の橋がかかり、その下流には古い橋桁だけが取り残されている。
長崎の眼鏡橋よりもよっぽど絵になる橋だ。
帰ってから調べてみたら、川は永吉川で橋の名前は浜田橋と言い、大正2年完成との事。
町の文化財に指定されている。



浜田橋

当初の予定より1時間遅れたが、止まない雨をあきらめて合羽を着込み出発。
まず海岸に出て日本三大砂丘に数えられる吹上浜を見たが、浜に出た場所が良くなかった
のかさほどの迫力も感じず、どこにでもあるような砂浜という印象だった。



吹上浜

知覧まではくねくねとした県道を通り小一時間かかった。
途中の金峰町の道の駅には無料休憩所が完備されていて、こんなことなら昨夜もう少しがんばって
ここまで来れば良かったと思ったが、ちょっと事前情報不足だったようだ。

知覧の町に入ると、メインストリートには道の両側に石灯籠がずーっと立っている。
特攻司令所跡の標識に道を曲がり、畑の中の細い道の路傍に映画「ほたる」のロケ地の碑があった。
映画は帰ってからDVDを借りて見たが、見覚えのある光景が幾つも出てきた。
目的の特攻平和会館は元の道に戻りすぐに見つかったが、大型観光バスが何台も停まり、思った
以上に入場者が多かったのには驚いた。




特攻平和会館

展示物の大半は特攻隊員の遺書・遺品で、それが静かに遺影と対応するように展示されている。
殆どが20歳になるかならないような少年達で、最年少は17歳。
その文章を読んでいると知らず知らずに涙が溢れ出した。
必死に自分の死を受け入れ、その死を誇りに思いながらも、親に先立つ不孝を詫びる文章。
皆驚くほど達筆に死に行く気持ちを書に認めている。
果たして厳しい検閲の中でどこまでの本心を書けたのか・・・

わずか20年足らずの人生の中で、逃れられない死と直面し、必死にその命に、その使命に、価値を
見出そうとしていた心情。
そしてその少年達を喜んで(表面上は)送り出すしかなかった周りの人々。

単なる特攻の是非を越えた、重くて複雑なものが心に入り込んでくる。
自分の父も海軍にいて終戦間際には特攻要員として人間魚雷「回天」に乗るはずを、終戦が来て助
かったという話を聞かされた事がある。
父はもう30年以上前に他界し、詳しい話を聞くチャンスは無いわけだが、状況によっては自分の存在
すらなかった事になる。

判っていながら破滅へと突き進む人間の業。
一度回り出すと止める事ができなくなる世の中の動き。
人には守るべきものがあり、国を、民族を、守る事は大切な事だと思う。
しかしそれが歪んだ形になることが怖い。
せめて過去に何が有ったのかを知る事で、もう一度立ち止まり考えるきっかけになるだろう。

結局予定の倍近い時間をかけて見て回ったが、それでも何か駆け足で通り過ぎたようで後ろ髪を引か
れる思いだった。

売店で特攻おばさんと呼ばれた鳥浜トメさんのドキュメンタリー「華のときは悲しみのとき」という本を買い、
その夜に読んだ。
ここは近くまで行く機会があれば是非行ってもらいたい。




海中から引き上げられたゼロ戦

すっかり予定をオーバーして会館を出ると雨は上がっていた。

ガソリンスタンドで池田湖への道を聞くと、大学時代は川崎に居たと言う店員が、近道と一緒にお勧め
ラーメン店も教えてくれた。
教えられた広域農道は、目の前に開門岳を望み左右に広大なお茶畑が広がる、ゆるやかなアップダウン
の続く直線的な道だった。
知覧は全国的なお茶の産地だそうで、お茶と言えば静岡・宇治・狭山だと思っていた頭に、またひとつ
新しい知識を与えてくれたが
そういった事も旅をすればこそだろう。

ちなみに九州地区のファミレスは圧倒的にジョイフルが多い。
関東地方ではあまり見かけないが、黄色に赤の看板があちこちにあった。
この時に聞いた道順もジョイフルが目印だった。




畑のむこうに開聞岳


おにぐちラーメン

お勧めのラーメンと餃子を食べ、迷った末に池田湖はパスして開聞岳を周る海岸沿いの道を選んだ。
国道から外れると、とたんに道は狭く標識も無く不安になるが、左に開聞岳、右に海を見える道なら
間違いないはずと進む。

しばらくして花瀬アというところに出た。
海を望む小さな公園には、フィリピンで戦死した兵を慰霊する碑がはるか南方を望んで建っていた。
鹿児島は間違いなく自分が住んでいる横浜よりも戦争の記憶が濃い。
まして未だ見ぬ沖縄は言うまでも無いだろう。

再び元の道に戻る。
釣り人か工事関係者以外は滅多に通らない道は、木々が茂っていてほとんど海も山も見えない。
それでも、たまに開けた場所からは遥かに大隈半島の影が見えたり、間近に見上げる開聞岳の美しい
姿が現れたりと飽きさせない。

すると突然目の前に小さな馬が現れて、ゆっくりと歩いていったのにはびっくりした。
野生の馬がいるのだろうか?

この道はやがて狭くカーブしたトンネルを通り抜けて国道にぶつかって終わる。

花瀬崎
フィリピン戦死者の慰霊碑
走っていると突然馬が現れた。
これにはびっくり!
秘密基地発見!と言いたくなる
不気味なトンネル
トンネルの前半は鉄の枠だけ
なんのため?


薩摩半島の先端は長崎鼻と呼ばれ、駐車場から10分ほど歩くと小さな灯台がある岬に行きつく。
太平洋が広がる右手には湾の向こうに開聞岳が美しいシルエットを浮かべ、左側には大隈半島が
長くその影を横たえている。
あの先端には佐多岬があるわけだが、見るだけで遠そうだ。
できれば今日中に近付きたかったが無理なようだ。



長崎鼻からの開聞岳


大隈半島が霞んで見える

岬から戻り、指宿の手前の山川町で天然砂蒸し風呂を初体験。
砂蒸し風呂と言えば指宿が有名だが、ここ山川でも体験できるしちょっとだけ安い。

浴衣一枚を羽織り砂場に寝転ぶと、係の女性が大きなスコップで砂をかぶせてくれる。
あっというまにタオルを頭に巻いた顔を残してすっぽりと砂に覆われた。
足首がドクドクと脈打っているのが良く分かる。
ただでさえ高い血圧が急上昇しないか不安になる。

目安は15分、すぐ横の時計を横目で眺め波音を聞きながら、地面から伝わる熱を感じる。
しかし思ったほどには汗が噴き出してこない。
毎日の寒さに汗腺が縮んでしまったのか?
結局20分ほどねばり、少し汗ばんできたところで砂から出た。

風呂で身体にまとわりついた砂を洗い流し、牛乳を飲み終わるころには15:30を周っていた。
駐車場の前の海岸で投げ釣りをしている人に話し掛ける。
どうも釣果は、はかばかしくないようだ。
海水も温泉で暖められて魚にも心地良さそうだが、鹿児島の魚には温泉ブームは無いようだ。


砂蒸し風呂
緑の屋根の下の砂場で同時に10人くらいが横になる


さて、これからどうしようか。
鴨池港からのフェリーで垂水港まで渡り、少しでも佐田岬まで近付くか?
鹿児島市内に泊まり、明朝早く行動開始するか?
野宿をすると意外と撤収の時間がかかり朝のスタートが遅くなるが、目的地に少しでも近付け
ればそれにこした事はない。

とりあえず鴨池まで行ってから考えよう。

鴨池は思っていたよりもずっと鹿児島市街に近く、到着した時には17時を過ぎていた。
これから大隈半島に渡っても暗い中で野宿場所を探さなければならない。
出来ればデジカメの電池の充電もすべて済ませたい。
何より吹く風の冷たさに走る気力が無くなってきた。

やはりホテルに泊まろうと決め、携帯で探したホテル法華クラブにチェックインした。
鹿児島一の繁華街天文館通りにも近く、フェリー乗り場までは15分ほどで着く。
残りの日程はかなり厳しいが、今夜ホテルでじっくりと作戦を考えよう。


ぶらぶらと歩いて食事に出たが、適当な店が見つかる前に入った通り掛かりのスーパーの総菜
にそそられた。
鳥刺しと握り寿司が安くて美味そうだったので、結局それを買って帰りホテルの部屋で食べた。
自宅周辺のスーパーでは鳥の刺し身が置いてあるのを見た事が無いが、やはり九州ならでは
なのか?
そういえば博多のスーパーでも売っていた。
にんにく醤油で食べる鳥刺しはビールに合うなあ。


先ほど鴨池陸上競技場のそばを通った。
長崎でも陸上競技場のそばを通った。
いずれも横浜フリューゲルスが準フランチャイズにしていた競技場だ。
できればフリューゲルスが存在しているうちに来たかったなあ・・・などと、ちょっとしんみりした。

バイクでのツーリングを休んでいる間にもサッカー観戦でずいぶんと旅をした。
仙台・新潟・栃木・富山・ひたち・鹿島・富士・浜松・刈谷・京都・徳島・神戸・・・
20ヶ所以上のスタジアムを訪れた。
でもほとんどが日帰りの強行日程で、気が付けばあまりその土地を見ていない。
ということは九州もサッカー観戦で来たら試合を見ただけになっていたかもしれないな。



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