信州弾丸ツーリング
昭和51年8月17日

俺が中型自動二輪免許を取得したのは昭和50年10月21歳の時である。
16歳とともにバイクの免許を取り18歳になれば4輪免許を取ってクルマに乗り替える一般的パターンに対し
ずいぶんと遅い二輪デビューだが、高校時代の俺はバイクもクルマも興味が無いばかりか社会に対して
害悪をもたらす存在と確信していたような、ある種独善的な価値観の持ち主だった。
しかしひょんなきっかけで50ccのバイクに乗り、それまで自分が持っていたどの移動手段に比べ圧倒的な
機動力と自由さにあっという間に虜になり270度くらい価値観が転換してしまった。
そして俺は翌週には教習所に通っていた。
ちなみにそれまで原付免許すら持っていなかったので、目の前にある(妹の所有だが)50ccのバイクに
乗るにも細心の注意が必要とされ(交番の前を通る時などは特に)必然的にごくごく近い範囲しか走れなかった。
まあ走る事すら論外なのだが・・・

当時の二輪免許は小型と大型の2種類
原付とは言えミッション・クラッチ付きのCB50でみっちりと練習を積んだ(おいおい)俺は順調に
大型二輪免許コースのプログラムを消化しあとは卒業検定を待つばかりとなった。


10月のある日、俺は喜びと落胆の入り交じった目で
初めて手にしたその月に誕生したばかりの中型二輪免許を見つめていた
卒業検定のちょっとしたミス(転倒で即検定中止だが)と引き換えの大きなロス・・・

何はともあれこれで晴れて大手を振って乗り回せる。
私は晴れてCB50(結局妹から格安で半強奪した)にまたがり
これさえあれば自分の意志で日本中何処でも行けるんだ
何時でも好きなところに行けるんだという高揚感で毎日自宅から勤務先の金沢区の埋め立て地まで走っていた。

しかし原付には30Km/H制限という抗いがたい法の網があり
疾走する感情を嘲笑うかのように追尾する白バイ警官との埋められない価値観の差に
何度か国庫に納付金を納める羽目に陥った。
国庫に幾ばくかの金を納めるのはまあ良い(まったくの強がりだが)
貧するといえどもそれが国家のためになるのであれば何程の事やあらん。
しかしCB50のスロットルは5速で全開すれば軽く80kmは出るのだ。
それを30kmで走れとは。
野口みずきにマラソンコースで競歩をやれというようなものだ。
シューマッハに軽自動車でF1レースを走れというようなものだ。
(しかし的を外れた比喩だな)

1ヶ月もしないうちに中古のハスラー250が新たな愛馬として我が家の軒先に繋がれる事になった。
2サイクル単気筒250ccのオフローダー。
50ccからいきなり乗り換えた俺にはなかなか手強い相手だった。
キックの重さ一つ取ってもその差は歴然。
気を抜いてスタート時につい多めにスロットルを回すといきなり前輪が浮き上がり、望みもしないウィリー状態のまま
コントロールを失いあわやガードレールの激突しそうになった事も何度かあった。
一日走るとあちこちのネジが弛むほどの振動。
それでもその気性を知るにつけて愛馬は主人の意志にほぼ忠実に走るようになり
愛馬との早駆けは日々の欠かせない日課となっていった。

仕事帰りに三浦半島を一周してみたり、夜中に箱根の芦ノ湖の湖畔で自販機のジュースを飲んで帰ってきたり
乏しい小遣いの大半がガソリン代に消えて行き、十代の頃の排気ガスによる環境破壊に対する正義感などきれい
さっぱりと消え失せていた。
ただ走っているだけで幸せだったあの頃。
そんな時期のある一日の記録を記憶の中から引っ張り出してみた。


出発は唐突だった。
何となく長野まで行こうと思い立った。
バイト先にいた友人が先日長野に帰ったので、その友人に会おうと思ったのかもしれない。
しかし彼の連絡先を知っていたのかどうも自信が無いが・・・
とにかく遠くに行きたかった。
思い切り走ってみたかった。
夜明けを待って自宅を飛び出すと国道1号・保土ヶ谷バイパス・国道16号を走り橋本五又路から津久井湖を目指した。
津久井湖・相模湖を通りハスラーは国道20号(甲州街道)にタイヤを踏み入れた。
あとはこの道をひたすら進めば目指す長野だ。
長い長い笹子トンネルを抜けいよいよ甲州路だ。



最初の観光ポイントは日本3奇橋の一つ猿橋
3奇橋といっても猿橋と岩国の錦帯橋は決まっているが
もう一つは諸説あるようだ。
日光の神橋・徳島のかずら橋・木曽の桟(かけはし)など様々だが
残り一つが神橋であればこの時点で3奇橋は全て見た事になる。
ちなみに昭和59年に復元工事が行われたようなので
この写真は復元前の貴重な写真となるのかな?
塩山市内に入った頃クラッチワイヤーが切れるトラブルに見舞われた
なるべく信号で止まらないように気を付けて、上手く回転数を合わせて
シフトチェンジすればクラッチを切らずとも変速できる事を学んだが
とにかくバイク屋を見つけるまでは随分苦労した。
無事修理も終わり茅野から蓼科・車山とビーナスラインを駆け上がる。


車山のレストハウス前にて
霧が峰有料道路通行券
これが残っていたので日付が判った
白樺湖だと思うがあるいは女神湖かもしれない
ちょっとした思い出の地だ

     蓼科ロープウェー

真夏の高原は旅心を満たしてくれる
この頃は毎年のように蓼科に出かけていたが
この時に初めて体験してその爽快感に病み付きになったみたいだ
ビーナスラインを走り諏訪湖へと下る


諏訪湖の辺に静かに佇む高島城を見学
そして再び20号に戻り松本を目指した


薄暗くなった塩尻峠を越え松本についた時にはすでに日は暮れていた
初めて訪れる松本市内を一瞥もせずと通り過ぎるといよいよ長野が近付いてくる
町並みも跡切れ明かりも無い道を走っていると「ポン!」という音と共に
突然ハスラーのエンジンが動きを止めた
俺は何が起きたのか判らなかった
キックをしても頼りない抵抗感があるのみでエンジンがかかる気配は無い
あらためてエンジンを見てみると単気筒のシリンダーヘッドにあるはずの
プラグが無くそこには丸く黒い穴が覗いている
締め付けが甘かったのか走行中にプラグが弛んで外れてしまったのだ
慌てて暗い道をとぼとぼ引き返して落ちているはずのプラグを探した
幸いな事に夜道に白い陶器の輝きのプラグは薄暗い中でも目立ち
100mほど戻った場所で無事プラグを発見した
貧弱な車載工具でプラグを締め込むとエンジンは再び咆哮を取り戻した
しかし俺はすでに急速に先に進む意欲を無くし
長野まであと少しなのだが引き返す事を選んでいた

何の景色も楽しめない道をひたすら引き返す
いつしか小雨が降り始めていた
日付も替わり強烈な睡魔が襲ってきた
大月市内に入ったところで睡魔との闘いは限界を迎えた
俺は小さなスーパーのかろうじて雨を避けられるわずかな軒下で横になった
うとうととした俺が目覚めたのは2時間後だった
幸い強烈な眠気はこの仮眠で去っていったようだ
いわばツーリング人生初の野宿になるのだろうか
夜明けにはまだ早い甲州街道に再びハスラーのエンジン音が響いた
幸い雨は上がったようだ
夜明けを迎えた相模湖にかかる橋を渡り
じりじりと温度を上げる夏の朝の中
津久井湖から相模原・横浜を辿り自宅に戻ったのはすでに出発から
24時間を大きく超えていた
28時間・600kmをほぼノンストップで走った弾丸というかブーメランの
ようなツーリング
自分の限界を多少広げてくれたような無目的ではあったが
妙に思い出に残る一日だった